ツイッターが好きだった。垣根がないから。誰でも誰にでも話しかけられるし、そのひとの話を読めるから。そう思って無邪気に遊んでいた。しかしある時私はあるユーザーに大変失礼なことをして怒らせてしまい、ブロックされた。当然のことだ。それはしかたない自業自得だし、相手のユーザーは何の問題もない。今でも申し訳ないと思っている。謝るしかないです。ごめんなさい。
そして今日、ついったーで知人たちが興味深いお話をしていて、自分も少しずつ会話に入っていっていたのだが、何か噛み合わないし、基本的にスルーされる。不思議な感じだなと思っていたら、勘のいいユーザーが、私をブロックしているユーザーが会話の中心におり、それをありがたく拝聴しているところであるというアピールをしてくれた。ありがたかった。その時点で私にはそのその会話に参加する資格がないことを理解した。
不要だし迷惑な存在なので排除されるのは当然だ。でもつらかった。ツイッターには一瞬にして疎外感につつまれてパソコンの電源を切りたくなるような状況も生じるということを痛感した。すこしtwitterが怖くなってきた。
いやでもこのエントリを例えばその人が読んだとしてね、せいせいしたぜって笑うような人ではないことは間違いないと思う。だからひょっとすると胸を痛めてしまうかも知れない。そのユーザーにとって私をブロックするという処理はどう考えても妥当だったし、私はブロックされるべき発言をしたのは間違いない。私は基本的にその方を尊敬しているので―信じられない方は信じなくても仕方ないが、私はかなり多くの人を尊敬している。何故なら殆どの人間は何か私にはない知恵や知識や経験を持っているからだ。そしてそれらを私に披露してくれる人、教諭してくれる人のことはすぐに尊敬する―あのような暴言は基本的にはありえないのだが、精神状態が良くなかった。覆面への甘えがピークに達していた頃だったかもしれない。覆面は私のオンラインでの交流をゲーム的にしていた。私は相手を覆面を被ったゲームのプレイヤーのように捉えていたのだと、今振り返るとよく解る。とんでもないことである。私たちは血の通った繊細な心を持つ人間同士である。そんな当たり前のことが解っていなかった自分が恥ずかしい。
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